Notes
このセクションでは、過去にしたためて公刊した文章をいくつか選んで収録することにした(冒頭の一文のみ未公刊)。その時々、美術・芸術をめぐって考えていたことを書きとめただけの断片ゆえ、内容は不揃いで、とりとめのないものばかりだが、個人的な備忘録(Notes)としてまとめておくことにした。長文のものは一部を抜粋したり分割したりして短文化した。いずれの文にも少しばかり、現時点での加除訂正を施し、末尾には簡略な出典情報を付記した。掲出順はランダムながら、①自作についてのコメント、②美術・芸術に寄せた雑感、③美術をめぐる状況論、④個別の作家論、という4種に大別したうえで、おおむね執筆年代順(降順)とした。必ずしも積極的に文章を書いてきた訳ではないが、気がつけば、数十年のうちにあれやこれやの雑文を必要に迫られるままに書き散らかしてきてしまった。こうした場を借りて、自分自身のために、とりあえず整理しておきたいと考えた。〔2023年11月〕
Contents
自作についてのコメント
植物と光の絵 ― 〈Botanical Series〉について
2017年9月、植物をモチーフとした新たなシリーズを初めて発表した。それ以前、長きにわたり、ある種のスランプに陥っていた。絵は描きつづけていたのだが、理屈ばかりが先行して、試行錯誤の隘路に迷い込んでしまい、発表に値する作品を完成させえぬまま、悶々とするばかりの日々が続いていた。
その間に出会ったのが植物だった。近隣の空き地や雑木林、職場の庭やいくつかの植物園などで目にした、名も知らぬさまざまな草木や花に、どういう訳か気持ちと目が惹き寄せられて、同じ場所に繰り返し足を運んだりもした。時刻ごと、そして季節ごとの変化には、つどつど驚かされるばかりとなった。植物そのものに特別な関心を抱いたというよりは、植物それぞれが生きるために抱え込む光(自然光)、その有りように吸い寄せられた、といった感覚だ。これらの光は、いったい何処からきて何処へ消えてゆくのだろうか。植物たちはそれをどう受け止めて生きる糧とし、どう手放して身を翳らせてゆくのだろうか。そうした素朴な感情が、目と心を潤す力になった。
職場での仕事においては、美術にまつわる理屈を並び立てざるをえないことも多いのだが、自作については、極力、理屈を排したいと思ってきた。絵を描くための杖になるかと思いきや、僕のレヴェルでは、枷にしかならぬ理屈しか思い浮かばないからだ。自作について語ることに、ついつい尻込みしてしまうのはそのためだ。つまらぬ言葉が絵を閉じてしまうのだ。
とはいえ、2021年6月にはこのシリーズの2回目の個展を開き、2023年末からは個人のWEB SITEも公開することにしたので、ようやく初めて、これら一連の自作に、後付けとなるのだが、勇気をもって〈Botanical Series〉という名を付すことにした。個々の作品のタイトルは必要に迫られ発表時に付した。絵が仕上がってから調べて、初めて知ることになった植物の名をそのままタイトルにした。いずれも便宜上の名ということになる。
遠い昔、学生時代を含む80年代、僕は主として彫刻を作り、数次にわたり発表を重ねてもいた(1984~1990年)。いわゆるポストもの派が全盛期だったこともあり、一部には評価してくれる向きもあった。この時も、「光」への強いこだわりがあり、光を受けて揺らぐような立体を作ろうとしていた。しかし、90年前後のこと、初心に帰って絵に立ち戻ることにした。とある地方都市の高校美術部の恩師に誓った初心、「立派な絵描きになる」という志をもって、夜行列車ブルートレインで上京したその日へと、立ち戻ることにしたのだ。気恥ずかしいばかりだが、今では微笑ましくもある自分自身のその素朴な初心は、立ち戻ってのち30年以上を経てもなお、まだ納得のゆくかたちで達成されたとは言い難い。どうにも悩ましいことだ。植物たちが、僕自身が望むところまで、連れて行ってくれるかどうか、今はそこに賭けている。
もう少し時間をかけて、ともあれこのシリーズをさらに展開させてのち、再び後付けとなるのだが、少しばかりの言葉を自作の説明に付すことを試みてみようと思ってはいる。現時点では、このあたりまでが精いっぱいということで、とりあえず擱筆。
筆:2023年11月11日、未公刊
光という物質 ― 個展に寄せて
絵を描くことは本当に難しい。いつもいつも、それを思い知らされる。僕の場合、そのためにのみ絵を描いているようなものだ。おそらくはこの先も、さしたる進歩はないだろう。それでも漠然とではあるが、自分が求める画面というものが、少しづつ見えてきたような気がする。
けっして見飽きることのない画面…… 終わりのない画面…… さまざま視線が注がれるたびごとに、静かに呼吸しつづけてゆくような画面…… そういう画面を実現できたならと願っている。途方もない願いかもしれない。
具体的に興味があるのは、ある質量をともなった光が、構造や運動を持続的に生み出してゆく力だといえるかもしれない。僕にとってはむしろ、最も基本的な日常のモチーフである光という物質…… それがそのまま稀有な色や形となって目に映る様を、確かな手応えをもって捉えたいのである。一瞬たりとも停止することのない光…… 色彩や形態を決定してしまわぬ光…… それらを、揺らぎつづける現実的な事象として描きえたなら、と考えている。
筆:1995年10月、配布プリント「是枝開個展」、ギャラリーαM、1996年1月刊
美術・芸術に寄せた雑感
たとえば、絵画について
見ることは、そのまま描くことへ、聴くことは、そのまま奏でることへ、読むことは、そのまま綴ることへ、触れることは、そのまま作ることへ。 ― ひとりの例外もなく、人は誰しも幼い頃より、年老いて生涯を終えるまぎわまで、無意識のうちにも日常のなかで、絶えることなく「創造」へと
もし、「創造」することを禁じられたなら、人はおそらく生きてゆくことはできない。それほどまでにこの性向は、生物としての人間が与えられた重大かつ不可思議な生存原理なのだ。実にクリティカルで、かつミラクルな、万人に共通の潜在的属性といってもいいだろう。天才と称される画家でも、音楽家でも、小説家でも、造形家でもない、私自身を含めた凡庸なる多数の人間の内にもある、精神の営みとしてのそれぞれの「創造」ということである。
私自身は、たまたまの経緯から、絵画について、ふと立ち止まり、自らの手を動かす、ということを重ねてきた。気がつけば、その「立ち止まり」をすでに数十年もの間、繰り返している。手を動かしてはみたものの、必ずしも納得のゆくような絵は描けず、落胆することも多い。だからこそまた立ち止まって、考え込み、そしてまた手を動かしている。幸いにも、歴史の彼方から優れた先人たちが何人も訪れて、見ること、感じること、考えることを強く促してくれることも多い。ありがたいことだ。促されるままに見て、感じて、考えて、そしてまた描く。絵の具で汚れた指で画集の頁をめくりながら、同じ絵の図版を再び見ると、異なるすじみちが見えてくることもある。
その作品1点を、時には美術館まで出かけてじっくり実見することもある。たとえば白い絵の具の重ね具合や、画布の隅に拡がる塗り残し、あるいは顔料と溶剤の調合具合による画面のテカリやザラツキ、筆運びの速度が作る緩急、そしてもちろん、全体としての濃淡や動静のバランスなどなど、見るべき箇所は多く、興味が尽きることはない。とある国のとある画家が、何十年・何百年も前に描いた絵を、今、作画の営為として追体験することほど、刺激的なことはない。
しかし、その帰路、疲れて立ち寄った公園で、木々を見上げて、その葉裏に揺れる光を見つめると、先ほど見た絵は歴史の彼方へと帰り、私も私自身へと帰ることになる。坐ったベンチの足元でうごめく虫たちに目をやり、くすっと笑ったりもする。暮れなずんできて、家路へと急ぐ人ごみのなかに、声なき声としての悲嘆を聞き、駅のホームの片隅にあって、ニュースで知った社会の歪みに思いが向くこともある。つまり、今この時の現実、そして私自身の凡庸なる日常ということでもあるが、実はそこからも学ぶことは多い。人間としてのもうひとつの生存原理ということになるのかもしれないが、今ここに居て在るということを放棄はしえない、ということだ。「創造」は、あくまでもそこからしか生まれえない。
小冊子「芸術文化学考」、武蔵野美術大学芸術文化学科、2020年8月刊
小さな彫刻ふたつ、そこから
先日、とある展覧会で、小さな彫刻をふたつ見た。ひとつは酒の「グラス」、もうひとつは「鶴」をかたどったもの。どちらも可笑しみのある愛らしいオモチャのような作品で、遠くドイツから運ばれてきたという。作者は世界中の何億万もの人がその名を知る20世紀最大の芸術家ピカソ。
あまたの研究が注がれてきた、あまりに著名な歴史的存在ゆえ、気安く近寄ることなどできない。そんな風に思える巨匠ピカソではあるが、その実、彼の作品はおしなべて、いずれも非常に親しみやすい。神話的な寓意も、劇的な文学性も、造形的な実験も、「気安く近寄る」ことをむしろ強く促してくる。僕が目にした小さな彫刻ふたつも、その典型だ。
そうした不可思議な「親しみやすさ」を、しかし、もはや過度に警戒することなく、素直にそのまま受け止めたいと思うようになった。最近になってようやくのことである。このひとりのカタルーニャ人の生涯に生起した数々の喜びや悲しみや怒り、芸術的挑戦をめぐる興奮や挫折。一個の生身の人間の、その日々の呼吸を想像しながら、それらの一端にでも触れることができればと、そう願うようになった。
彼がかいくぐった20世紀の2回の大戦は、悲しいかな今世紀にも亡霊のごとく蘇ってしまった。現行の露宇戦争はこの一年で、今や第二次大戦後、最大規模の戦闘になったという。その全容もまた、知り尽くせるはずもないのだが、せめてその一端にでも触れて、そこに生きる人々の、日々の呼吸に想いを寄せつづけてゆきたいと、そう願っている。
冊子「卒業研究・修士論文表題集」、武蔵野美術大学芸術文化学科、2023年3月刊
かくも脆い世界の、その不確かな未来に
訪れたこともない遠い彼の地のとある国が、今、とてつもない窮地に陥っている。広大なユーラシア大陸の西部にある宇国(ウクライナ)のことだ。今まさに、昼夜を問わず時々刻々、その危機が無数のニュースになって世界中を駆け巡っている。30年ほど前のこと、「ソ連邦」なる大国があまりにあっけなく崩壊した。その崩壊のひずみが、いまだそこかしこに地雷のごとく埋め込まれていたということなのか。そうとは目に見えぬ形で人々の心の内にも、歴史的な時間の捩れが深く拡がっていたということなのか。まるで前時代的な恐怖映画でも観ているような感覚。この21世紀にはあろうはずもないと思っていた暴挙が、次々と現実のものとなって、滑稽なほど巨大なかたまりとなってゆく。
僕などには、詳しい現況もその内実も、そこに至る経緯も背景も、わかりようもないことばかりなのだが、しかし、とにかく心が痛み、どうにも辛くなる。識者たちはこの危機を契機に、冷戦後の国際関係が各所で綻んで、戦後の世界秩序そのものも大きく揺らいでしまうのでは、と警鐘を鳴らしている。折しも今、世界はこの2年あまりのコロナ禍で散々傷めつけられて、かつてないほど脆くなってしまった。「世界」なるものがかくも脆く、そして不確かな場であるとしたら、その一隅で生きている人々、たとえば宇国の人たちは、今、どうしているのだろうか。明日をも知れず、数カ月後の未来も見えないだろうその境涯を、何とか生き延びてくれるだろうか。
未来は誰にとってもつねに不確かだ。それゆえ人は不安になって悲しんだり、苛立ったり、時に諍いを起こしたりする。その不確かさの度合いを少しでも小さくするため、人は勉強を重ねて自分でものを考えようとする。作業を重ねて何かを作り出そうとする人もいるだろう。いずれも何らかの希望を手にするための実に素朴な営為だ。その営為を人知れず黙して淡々と積み重ねてゆくこと、それが今の僕にとっては、とりあえず唯一の手立てだ。勉強に飽き、作業に疲れて、たびたび挫折することもあるが、気を取り直してまた繰り返す。そうしたなかで、かすかにせよ自分なりに確かと感じられる何かに出くわすこともある。
筆:2022年2月25日、冊子「卒業研究・修士論文表題集」、武蔵野美術大学芸術文化学科、2022年3月刊
所在のなさに、とりあえず身を委ねて
休日なのに、まだ暗いうちに目が覚めた。脈略のないつまらぬ夢を見て、眠りが途切れたためだ。とてもリアルだったのに、どんな夢であったか思い出すことはできない。うつらうつらしながら、ここはどこで、今はいつで、そして自分は誰であったか、それすらよくわからない。そんなぼんやりとした「所在のなさ」は、誰もが体験したことのある感覚だろう。部屋を見回し、時計を見て、そして自分の名前を思い出してもなお、その名がついた自身の存在が、まるで見知らぬ他人のごとく、いよいよ不確かに感じられる。水を飲み、窓の外を見ると、曇天の薄明、いまだ物音もしない。そしてそのまましばし、この「所在のなさ」に、とりあえず身を委ねてみる。
機械的に時を刻むいつもの日常に、すぐには戻れない。スマホやテレビをオンにすれば、即座に戻ることができると知ってはいても、その気にはなれない。自身の存在が液晶画面の枠外へと後景化し、別の意味でより希薄になってしまうからだ。そこでとりあえず、紙きれと鉛筆を手に、文字を綴り、線を描く。手を動かして、ゆっくりと言葉を探し、形をまさぐってみる。少しずつ、情報も理屈もないところに、素朴な手応えと安心が生まれ、ここに自分は確かに居る、と感じられるようになるのだ。
この一年は、パンデミックが世界中を覆い尽くした歴史的な危機の時代となった。時代そのものが大きく揺らぎ、多くの国家や個人が、予測不能な情勢の変化に翻弄されつづけてきた。それは今なお、続いている。とはいえ、必ずしも辛く悲しいばかりの日々ではなかったという人もいるだろう。しかし、そうした人たちをも含め、誰もの心のうちに、言い知れぬ不安がはびこっていたのも事実であるはずだ。そうした時、芸術的なるものが、ときに心の安寧を作りうるということを、僕は信じてゆきたい。小さな芸術でも構わない。ささやかなイタズラ描きですら構わない。「所在のなさ」に震える自身のためであっても良いだろう。
冊子「卒業研究・修士論文表題集」、武蔵野美術大学芸術文化学科、2021年3月刊
静かな風景に寄りそう
数年前まで、鎌倉の海の近くに自作用の倉庫があった。そこを訪れた冬晴れのある日、小高い丘をひとり散策しながら登った。てっぺんに着くと、その下は墓地で、後ろにある崖にはインドの石窟群のような、2メートル四方ほどの横穴がいくつも空いていた。そこに夕陽が射し込んで、雑木林の緑を揺らしながら、ひとまとまりの風景を作っていた。妙に心地の良い光と空気とが、今ここに居るはずの自分を無化して、風景そのもののなかへ送り込む。不意に訪れたそんな感覚に、思わず驚いたことをよく覚えている。
季節や時間により、風景はつねに変化しつづける。同じ形や色は二度と生まれえない。そんな生成変化の妙を、芸術家たちは絵画にして表現してきた。セザンヌが描く山も、モネが描く池も、あるいは玉堂が描く川も、劉生が描く草や土も、誰もが知るありふれた自然の一端の、その移ろいの一瞬を描きとめようとしたもの。しかし、描きとめることはできない。それゆえ、彼らは繰り返し繰り返し、描きつづけた。
繰り返し描くには、ありふれた風景がむしろ良い。しかもそれが静かな風景であれば、なおさら良いのかもしれない。微かな変化に目を凝らし、耳を傾けることができるからだ。静かな風景とは、名づけることのできない、意味づけることのできない場でもある。あるいは、そこに佇んでいる自分が、知らず知らず引きずってきた雑音を消し去ってくれる、そうした空気でもあるだろう。とはいえ、そんな場や空気に出会いつづけて、繰り返し寄りそいつづけることは、なかなか難しい。誰もが名づけや意味づけの網目に絡まれて、頭をかかえている。過去や未来から押し寄せる声に、気がつけば苛立ちを感じている。
山や池、川や草や土、それらに出会いつづけ、寄りそい、描きつづけた画家たちの、その弛まぬ意識の連続に、改めて脱帽するばかりだ。脱帽しつつ、自分なりに繰り返し描くべき「風景」を見つけて、寄りそってゆきたいと考えているのだが。
冊子「卒業研究・修士論文表題集」、武蔵野美術大学芸術文化学科、2020年3月刊
思わぬところに思わぬ輝きが隠れている
日々、世界のあちらこちらから送られてくるWEB NEWSのヘッドライン。紛争の惨劇から芸能界の珍事まで、世の中はいつの時代も目まぐるしく、喧しく、騒然としている。その傍ら、今のところわたしたちの日常はおしなべて穏やかで、退屈ですらある。多忙であったとしても、それは小さな箱のなかでの出来事にすぎず、時々の一喜一憂もまた、あらかじめ用意された小さな器のなかでの振幅にすぎない。
微妙な危機感と閉塞感とがないまぜになって、現実はひたすら「のっぺり」するばかりだが、そんな日常にあっても、思わぬところに思わぬ輝きが隠れていることがある。ガラスのコップの縁にとどまる光、古びた本の頁に潜むカビの匂い、手に触れた溶剤の特殊なヌメリ、エアコンの機械音に混流する隙間風の音…… いずれも、ありふれた静けさのなかに埋もれているものばかりだが、その静けさに耳を傾け、目を凝らしてみると、いっさいの制約から解き放たれた名づけようのない輝きを発見しうることがある。それらはわたしたちを、いつもよりは少しだけ大きな世界へと
原題:「そこにあるありふれた静けさに、耳を傾け、目を凝らしてみる」、冊子「卒業研究・修士論文表題集」、武蔵野美術大学芸術文化学科、2018年3月刊
美術をめぐる状況論
絵画について ― 原初的な場〔抜粋 1 / 2〕
今日、日増しに複雑化する現代社会においては、美術を取り巻く環境も、美術そのものをめぐる問題意識も、さらには「美術」と呼ばれる事象全般の存在の仕方までもが、刻一刻と思いもかけなかった方向へ大きく変化しつづけている。思索や制作の前提そのものが、めまぐるしくも日々塗り替えられてしまうかのような焦燥感や、刹那的、分裂的な現象ばかりが過剰に横溢しているかのような息苦しさを覚える者は、少なくないのではないだろうか。そうしたなかで、鋭敏でありつつも、美術家としてある意味「愚直」でありつづけることは、きわめて困難なことであるに違いない。変わらざるもの、変わりえぬものを、より大きな歴史時間のなかで見据えなおしてみないかぎり、そして意識的にせよ無意識的にせよ、何らかの足場を今一度固めなおしてみないかぎり、絵を描くことなどできないだろう。同時に、卑近なライフ・スパンの将来などではなく、さらに遠い未来の果てを予見的に見据えてみる直観力が、今ほど重要とされるときはないのかもしれない。変わりゆくもののダイナミズムを察知しつつ、今この時がそこにどう繋がってゆくかを思考する力は、美術という領域ならではの可能性として、美術家たちに預託されているようにも思える。
原題:「プライマリー・フィールド ― 原初的な場/基本的な場所」、図録『プライマリー・フィールド II 絵画の現在 ― 七つの〈場〉との対話』、神奈川県立近代美術館、2010年12月刊
絵画について ― 原初的な場〔抜粋 2 / 2〕
たとえば画面を前に遠く不可思議な音を聴くこともあれば、無関係ともおぼしき怖ろしい物語を想起してしまうこともあれば、はたまたそのリズムを体で感じて踊り出すこともあれば、破壊的な衝動を覚えたり、抒情的な欲動により思わず感涙したり、逆に吸い込まれるかのような感覚のもと沈黙と停止を余儀なくされることもあるだろう。一枚の絵画がはらむ喚起の力は、まさに千差万別の現象を生み出すのであって、それは往々にして作者の予測の範囲を超え、作者自身の自作に対する反応においてすら、驚きをもたらすことがあるのではないだろうか。そうした予測不能な力をもつ絵画こそが、逆に優れた絵画ということにもなるだろう。
絵画によって喚起される言葉とは、そうした反応のひとつでしかないが、それはきわめて重要な現象でもある。言葉としての完成度や論理性などはここでは特段の意味をもたない。雄弁多弁であることが必ずしも有効であるとはかぎらない。そんなことではなく、むしろ言葉にしえないような段階の原初的な発話にこそ、大いなるヒントがあるのではないか。つまり、分節しえない網目のような思考や曖昧模糊とした感覚を、あえて言葉にしようとするときの、その吃音的な発話の働きかけこそが、作品にとって最良の分析にもなるということである。あるいは、物理的な制作プロセスに関する説明的な言葉などのなかに、思いもよらぬ重大な原理原則が隠されている場合もあるだろう。そうした現象としての言葉をさらなる素材として咀嚼し、再び作品のなかに差し戻すことができれば、絵画はより一層、豊かなものとなり、さらなる予測不能な現象を生み出すことにもなるだろう。
原題:「プライマリー・フィールド ― 原初的な場/基本的な場所」、図録『プライマリー・フィールド II 絵画の現在 ― 七つの〈場〉との対話』、神奈川県立近代美術館、2010年12月刊
反復と飛躍 ― 原初的な場〔抜粋〕
……そうした衝撃的な飛躍の感覚が到来するまでに、作家たちはそれぞれ膨大な時間とエネルギーを費やし、日々制作の現場で、ひたすら恬淡とした態度で反復的作業を重ねている。……目には見えぬ何かを手探りし、分析し、選び、仮に定着させて、そしてまた手探りを繰り返すという一連の行為、それを「原初的な場」で淡々と反復しつづけることが、私的な思惑を超えた何ものかを到来させる瞬間を準備し、「つくらずして、つくる」という難問に答えを出してゆくことになるのだろう。ここで言う「飛躍の感覚」とはまさに、原初的と言いうるほどに無作為な場を準備し、そこで無感覚にまで至るほどの反復的作業を重ねた果てに到来する、作家にとっての豊かな自己内他者なのだ、ということができるかもしれない。
原題:「原初的な場との対話 ― インタヴューを終えて・追記」、図録『プライマリー・フィールド 美術の現在 ― 七つの〈場〉との対話』、神奈川県立近代美術館、2007年11月刊
「彫刻」とは呼びえぬものへの道程〔抜粋 1 / 3〕
われわれすべてが棲まうこの三次元の世界に、三次元の物象を芸術表現として存在させるということが、最も原理的な意味における彫刻の定義といっていいだろう。しかしその三次元性こそが、逆説的ではあるが、あらゆる芸術表現のなかで彫刻というものを何より困難な形式にしているように思えてならない。彫刻作品は、それが表現であるかいなかの問題以前に、まずもって物として、物質としてそこに存在してしまうからである。とりわけこの困難は、写実表現にとって大きいだろう。単なる現実の疑似物ではなく、そこに何らかの表現を成立させようとした場合、二次元の絵画に比しての利点ともおぼしき三次元性が、むしろ困難を増大させているのである。絵画はどれだけ写実の妙を凝らそうとも、それ自体では現実の物象とはなりえぬ形式であり、そこには架空の二次元の場という前提が、あらかじめ表現のために用意されている。しかしそうした前提は彫刻には用意されていないのである。
また、素材の問題も絵画とは大きく異なる。彫刻の場合、石であれ木であれブロンズであれ、それぞれの素材が、作者が意図する表象作用などを超えて、それ自体、無視しがたい触知的な存在感を強く主張することが多い。彫刻家はまさに身をもって、自ら選んだ素材との格闘に多くの時間を割かなければならない。さらに速度と重量の問題があるだろう。物として、物質として存在してしまうがゆえに、絵画におけるイリュージョンの世界ではいとも容易く表現できる速度や無重力、すなわち「非物質的な軽やかさ」が、彫刻においては最も表現しがたい要素であることは、指摘するまでもないだろう。
こうした彫刻にまつわるさまざまな困難は、しかしながら同時に、それゆえにこそ彫刻という芸術表現の存在を意義あるものにしてきたといえるのではないだろうか。20世紀の先鋭的な彫刻家の多くは、彫刻ならではの困難と正面から向き合い、そこから「彫刻とは何か」という根源的な問題に立ち返って新たな議論を巻き起こしてきた。とりわけ戦後に至ると、こうした困難から発した議論こそが、その困難を逆手に取ることをも含め、新しい彫刻論、新しい彫刻作品の誕生を促す最大の原動力になったといえるだろう。
原題:「戦後日本の彫刻」、図録『もうひとつの現代』、神奈川県立近代美術館、2003年10月刊
「彫刻」とは呼びえぬものへの道程〔抜粋 2 / 3〕
言うまでもなく彫刻の歴史は、絵画の歴史と切り離して論ずることはできない。逆に優れた彫刻作品は、絵画の本質やその動向を見据えた彫刻家によって生み出されてきたということもできる。多くの場合、美術史のなかではまず絵画の歴史が語られ、それに付随するかたちで彫刻の展開が論じられているが、絵画と彫刻の関係は、相互補完的というべきだろう。彫刻家たちは、絵画という形式においては表現不能であることこそを表現すべく心血を注いできた。同時に、絵画にしか許されていない表現の手法をいかに彫刻において実現するかにも腐心してきた。そしてその成果が、逆に絵画そのものにも大きな影響を与えているのである。
戦後に至ってその関係性は、さらなる劇的変化を見せた。一脈の絵画が要素還元主義を推し進めて「物質としての絵画」という認識に到達した時点、すなわち50年代末から60年代にかけて、両者の関係はむしろ逆転し、あるいは渾然一体となったといえるだろう。キャンヴァスに油彩という旧来の絵画形式とその素材が、もはや前時代的と感じられるようになり、画家たちがこぞって立体作品やオブジェを作り出した時期のことである。そしてこのとき、実は絵画も彫刻もともに、もはや「絵画」とは呼びえぬもの、「彫刻」とは呼びえぬものへと拡散的に展開してゆくことになったわけである。
しかし、それでは今日、もはや「彫刻」と呼びうるものが制作されていないかというと、それは必ずしも事実とはいえない。少なくとも、その呼び名のもとに繰り広げられてきた過去の彫刻家たちのさまざまな葛藤は、今もって有効な示唆を現在の制作者たちに与えつづけている。そもそも「彫刻」という呼び名、そしてこの用語によって呼び慣わされてきた立体作品は、日本においてさほど長い歴史を持っているわけではない。江戸末期から明治初期にかけて西洋から輸入されて定着していったひとつの芸術領域にすぎない。しかし、用語上の字義的な問題とは別の次元で、彫刻なるものの、その表現そのものの基底に生じた歴史的展開を、今、改めて振り返ってみることは、きわめて重要といえるだろう。
原題:「戦後日本の彫刻」、図録『もうひとつの現代』、神奈川県立近代美術館、2003年10月刊
「彫刻」とは呼びえぬものへの道程〔抜粋 3 / 3〕
個体としての彫刻から、それを取り巻く空間や環境をも意識した作品へ、はたまた行為として、概念としての作品や、音響や映像を取り込んだ複合的な作品、さらにはメディア・アートやヴァーチャル・アートなどなど、70年代以降の美術の状況は、誰もが知るとおり多様化の一途をたどり、めくるめく変化を遂げつづけてきた。今日に至っては、「彫刻」「絵画」はおろか、「美術」と呼ぶことにすら抵抗を覚える作品が多々出現している。事態はあらゆる意味において良くも悪くも拡散化し、主流も傍流もなく、保守も革新もありえなくなった。そのことは、いみじくも文化全体の状況をそのまま反映しているといっていいだろう。
しばしば歴史は不可逆であるといわれるが、ここで語ってきたこうした「彫刻とは呼びえぬものへの道程」もまた、本当に不可逆なのだろうか。確かに20世紀という時代、あるいは高度成長を遂げた戦後日本という時代は、不可逆を前提として歴史を前進させることに誰もが躍起になってきた時代だったかもしれない。しかし21世紀へと頁がめくられた今、その前進の果てに何があるのかという疑問が、どうしようもなく大きなものとなってしまった。表現たるもの、既存の価値観すべてを刷新し、世界中を震撼させるようなダイナミズムを持たなければならない、といった前衛たちの革命的使命感は、逆に前時代的になってしまった。個々の表現はそれほど大仰な目的を掲げずとも、それなりの意味を持ちうるだろうという気配が、若手アーティストのあいだには広く浸透している。その気配が、単に時代に背を向けてしまった安易なだけの作品を量産していることも事実といわざるをえないが、なかには時代と自分の距離を測りながら、それなりの困難を引き受けて表現に立ち向かっているアーティストもいる。また、人がその手で何かを作り出し、そこに何らかの表現を盛り込み、そしてそれを身近な人々に伝えるという素朴な行為に立ち返って、「彫刻」と呼びうるものを作りつづけている優れた作家も多数いるだろう。そんななか、三次元性、物質性を宿命づけられた彫刻というものの葛藤の歴史を振り返ってみると、例えば柳原義達や木内克、あるいはイサム・ノグチが引き受けてきた困難、向き合ってきた時代の状況に、新たな感動を覚えもするだろう。その時、歴史は遡行可能な時空間となり、彫刻もまた、その呼び名のいかんにかかわらず、今日的な問題を提起しつづける領域となるのではないだろうか。
原題:「戦後日本の彫刻」、図録『もうひとつの現代』、神奈川県立近代美術館、2003年10月刊
模倣と解体 ― 抽象表現主義の胎動期〔抜粋 1 / 3〕
一枚の絵を前にして、「わたしも絵を描いてみたい」と感じさせられることは、誰にもあるだろう。それはある意味では、絵画に対する最も素朴な反応といえるかもしれない。たとえば画面の中に発見したひとつの形態でもいい、あるいは特定の色彩、あるいは独特の筆触…… 何かが理屈を超えて視線の内側に、そのたぐいの刺激を与えるのである。幼い頃には何のためらいもなく、誰もがいろいろな絵を描いていたとするなら、忘れてしまった幼年期の衝動が呼び起されるといってもいいだろう。絵を「見ること」と「描くこと」とは、知的成長とともに大きく乖離し、別物になってゆく。子供は貪欲に無節操に「模倣」する、あるいは模倣的な目で画面を追う。大人はそれを自制する。子供は「模倣」の意味や技巧を問わないが、大人はまずもってそれを思案する。その結果、礼儀正しく作品を鑑賞し、わたしは絵描きではないと再確認するのである。
絵画の側もまた、追随を許さぬ意味と技巧の質を、画面の中に封印してきたのかもしれない。それは職業画家たちが積み重ねるべき当然の営為ではあるが、封印されてしまった傑作は、知的な視線のみを受け入れ、それ以外の粗野な視線を撥ね除ける。意味と技巧に敬意を払わぬ視線は、画面を分断し、歪曲し、破壊する恐れさえあるからである。
原題:「模倣=解体の連鎖と集積 ― 抽象表現主義の胎動期」、図録『抽象表現主義展』、セゾン美術館ほか、1996年6月刊
模倣と解体 ― 抽象表現主義の胎動期〔抜粋 2 / 3〕
抽象表現主義の作家たちは、ある意味ではそのような粗野な、危険な視線の持ち主だったといえるかもしれない。つまり彼らはその成長期にあって、さまざまな絵画作品を貪欲に模倣し、同時にそれを大いに分断し、歪曲し、破壊さえしたということである。単に彼らが子供のように無邪気な精神の持ち主だったということを言おうとしているわけではない。彼らは人一倍、大人としての不自由や拘束を感じていたわけだが、新しい絵画を求める強固な意志が、葛藤を繰り返し、その果てにある種の自由を獲得した。つまり、封印された絵画を、敢えて無垢な視線の前に開放していったということである。
意味や技巧を度外視した「模倣」への衝動は、そのまま即物的な「解体」への衝動に繋がってゆく。たとえば子供が感じるような無垢な「模倣」衝動は、作品から受けた印象を大胆に解析し、かつ劇的に再編する力を生む。画面を統合している文脈を解体して、個々の語彙を自在に組み替える、といってもいいだろう。どこかキュビスム的ともいえる力学作用、シュルレアリスム的ともいえる転換作用である。つまり「模倣」されるのは、文脈でも、意味でも、技巧でもない。即時的に感知され、即興的に再編されうるような最も基本的、本質的な要素のみなのである。その意味でこれは、「模倣」の域を超えた作用というべきなのかもしれないが……
原題:「模倣=解体の連鎖と集積 ― 抽象表現主義の胎動期」、図録『抽象表現主義展』、セゾン美術館ほか、1996年6月刊
模倣と解体 ― 抽象表現主義の胎動期〔抜粋 3 / 3〕
模倣への衝動と解体への衝動が実践の場で同時進行し、それがさらに作品間、作家間でめくるめく連鎖していったのが、初期抽象表現主義の最たる特徴であったともいえるだろう。過去の遺産を継承しつつ解体し、その上でそれを再編してゆく作業は、美術史が展開するごとに繰り返されてきたことではあるが、この場合、かつてない、とてつもない質量のエネルギーが、斬新な視線とともに注ぎ込まれたということなのだろう。
周知のごとく抽象表現主義の絵画は、ヨーロッパで展開されたさまざまな近代絵画の動向に大きな影響を受けた。セザンヌ、ピカソ、マティス、ミロ、カンディンスキー、あるいはキュビスム、シュルレアリスム…… それらの影響を抜きにして、抽象表現主義が誕生した経緯を正確に知ることはできない。しかし、影響を受けたということ以上に興味深く感じられるのは、その影響が受動的にではなく、驚くほど能動的に、かつ現実的、実践的、即物的に摂取されたという現象である。それはけっして線的に追査しうるような影響関係ではない。近代絵画誕生後のさまざまな動向すべてが、渦を巻きながら、ニューヨークという磁場に大きく呑み込まれてしまったかの観さえある。しかも彼らは、それを実に大胆に咀嚼した。キュビスムもシュルレアリスムも、結果的には原型をとどめぬほど咀嚼されつくして、まったく新たなアメリカ型絵画の滋養となったのである。
原題:「模倣=解体の連鎖と集積 ― 抽象表現主義の胎動期」、図録『抽象表現主義展』、セゾン美術館ほか、1996年6月刊
内部と外部の視線 ― 「視ることのアレゴリー」〔抜粋 1 / 2〕
作品を「視ること」は、作り手にとっても受け手にとっても、最も基本的な作業といえるだろう。作る前に視る、作りながら視る、作り終えてまた視る、そして他者が視る、再び作り手が視る…… 繰り返し繰り返し、「視る」作業がひとつひとつ作品のうえに折り重ねられてゆく。作品は作り手をも含む外部の視線によって醸成され、本当の意味で完成されてゆくのである。
とはいえ、現実に作品を生み出す契機となるのは、すなわち作品が作品としての形姿を整えてゆく契機となるのは、外部の視線ではなく、人知れず作り手の内側で発動される内部の視線なのである。それは言うまでもないことだろう。作り手のなかには、このような内部の視線と外部の視線が、渾然一体となって同居しているということである。
制作の過程において、この二種類の視線を葛藤させることなく作品を完成させる作り手はいないだろう。このとき作り手は、どのようにして内部の視線の主体となり、また同時に、どのようにして外部の視線の主体となるのだろうか…… 言い換えれば、作品からは物理的に切断されている自分を、あるいは自分の手を、さまざまな意識や思惑の網目から解放して、作品そのものと一体化させること、そしてそれとは逆に、精神的には自分の身体の一部のごとく存在する作品を、むしろ切断して客観視してみること、そうした転換がどのようなかたちでなされるのだろうか、ということである。
どうにも冷めざめとして手が動かない、あれこれ考えるところはあるが、そればかりが先行して、作品を前にすると気分が今ひとつ乗らない、こんな作品に何の意味があるだろうと考え込んでしまう…… そういうこともあるだろう。また逆に、妙に気分は乗っている、驚くほど手は動く、あれこれ考えず、ともあれ作るしかないだろう、もしかしたらこれはとんでもない傑作になる、そんなふうに無我夢中になるのだが、ふと気づくと作品は何とも独善的な表情を見せている…… そういうこともあるだろう。このように、作り手自身が作品を前にして内部となり、外部となることを繰り返してゆく、そうした当然の経緯のなかに、最も大きな困難があり、最も興味深い葛藤があるといえるのではないだろうか。
原題:「絵画・彫刻の今日的問題」、図録『視ることのアレゴリー』、セゾン美術館、1995年6月刊
内部と外部の視線 ― 「視ることのアレゴリー」〔抜粋 2 / 2〕
今日の絵画・彫刻が最重要課題として提示している問題の底辺には、「視ること」にまつわる制度の解体があるといえるだろう。つまり、このような作り手と受け手のお決まりのやりとりを、まずは打破すること、それが提唱されているのである。作り手はことさら天才である必要もなければ、狂人である必要もない。また受け手はとりたてて行儀よく外部にとどまっている必要もないということである。作り手自身が外部となり、受け手が内部となりうるような視覚の経路が、新しい構造として目指されている。作者は自らの作品を前に、完全なる他者となって異なる視線を注ぐ、一方で作品を前にした他者は、思わずその視線を転倒させて、内部である作者の視線に重ね合わせてしまう。このような視覚の転倒のドラマを無限に許容する開かれた視座が、現在の絵画・彫刻において模索されているように感じるのである。そこでは、時代の需要に応じてシステム化されるシンボルの体系は、瞬間ごとにつきくずされてゆく。一義的な解釈を成立させることのないアレゴリカルな視覚の構造が、さまざまな先入観を排除し、解釈の新たな可能性を次々に招聘するのである。永遠に終わることのない視線の往還が、ここでようやく端緒につくことになるのだろう。
原題:「絵画・彫刻の今日的問題」、図録『視ることのアレゴリー』、セゾン美術館、1995年6月刊
個別の作家論
川合玉堂の「風雅の誠」 ― 日常と飛翔〔抜粋 1 / 2〕
画人玉堂(1873–1957)はそれぞれの時期、さまざまに創意工夫して、その時々の結論を出しつつ、目に映るものを画にしていった。戦後になってさらにその画趣を、融通無碍なる新境地へ飛翔させてゆくことにもなるのだが、ただし終生一貫して「写生」を離れることはなく、つねに具体的な事物に対し独自の愛情を注ぎつづけた。「日常」への慈しみがその画の原動力でありつづけたといってもいい。
写生から発し、そこから深い「味わい」を醸す抽象的な虚空をも描き出し、そして再び玉堂は写生へと立ち戻って、目に映る日常の世界を捉え返した。私情・私見を捨てて無心に写生を繰り返すことで、初めて画上に独自の情動が滲み出てくることもあっただろう。主客・虚実の往き来のなかに、この画人の呼吸が当意即妙なる空間を紡ぐということもあったに違いない。それもこれもすべて、まずは「心を空しくして行き、満ち足りて帰る」という精神に発している。そこにこそ画の「行きて帰る心の味わい」(『三冊子』)があるのであって、生涯変わることのなかった玉堂の本源的な「風雅の誠」があったといえるのではないか。
原題:同上、図録『川合玉堂展』、神奈川県立近代美術館ほか、2011年9月刊
川合玉堂の「風雅の誠」 ― 日常と飛翔〔抜粋 2 / 2〕
1916(大正5)年に文展に出品された《行く春》を見てみよう。六曲一双の金地屏風に描かれた同作は、長瀞から舟で川下りをしたときの経験をもとに、寄居あたりの風景を描いたものとされている。のちに重要文化財に指定される玉堂(1873–1957)の代表作だ。何にもまして画期的なのは、この作が見せる画面全体の動勢である。主題となっている川の流れとともに、あらゆるものが動画のごとく絶えず動いて見えるのだ。色も形も面も線も、そして描写の粗密も色彩の濃淡も、相互に作用しつつ運動としての力の総和を生みつづけている。川舟や桜、渓流や岩場の描写がまさに生きて律動している。穏やかな春の情景のそこかしこに、そうした構造が組み込まれており、そこに時が流れているためである。
六曲一双という大画面の効用も大きい。見る者は画面のなかに入り込んで描かれた事物を追う。その視線の運動が逆に画面を動かしもする。どこからどう事物を追うかによって、見え方も千変万化、画面の有りようも変化しつづける。描かれていないもの、たとえば背景の岩場の色面に何らかの幻影を見い出すのもまた、個々の視線の自在な運動の作用といえるかもしれない。
こうした変幻自在な動的絵画の構造、見るたびに新たな心的印象を生成しつづけるような画面こそは、ジャンルのいかんにかかわらず、近代から現代へと継承されてきた大きな絵画的「飛翔」のひとつといえるだろう。その一端を、この《行く春》もきわめて早い時期に担っていたことになる。
原題:同上、図録『川合玉堂展』、神奈川県立近代美術館ほか、2011年9月刊
デイヴィッド・スミス ― 平面と立体の間の往還運動〔抜粋 1 / 2〕
10代にして早くも鉄という新素材に馴染み、宿命のごとくモダニズム彫刻の展開に身を投じていったスミス(1906–1965)は、一方でおびただしい数のドローイングを残している。周知のごとく彼の作品群は、ひとつのイズムやムーヴメントの中で言及しつくせるようなものではない。それはキュビスムと連鎖し、シュルレアリスムと連鎖し、抽象表現主義と連鎖し、あるいはまた未来派とも連鎖している。スミスは平面空間と立体空間の間で絶えず往還運動を繰り返しながら、そうした種々の文脈を解析しつづけ、結果的にそれらすべてを超脱し、かつ統合していった作家といえるだろう。
スミスの作品群を年代順に、あるいはシリーズごとに系統だてて分類することは、ほとんど不可能と思われる。彼の思考そのものが、無秩序なまま有機的に展開し、反復されていったためである。ひとつの関心事が連続している場合でも、ドローイングの内に起こったある反応が、次々と彫刻への反応を誘発し、また逆に彫刻の内に起こった反応が、ドローイングへの反応を誘発して、いくつもの形態が生まれ、無限に拡がってゆく。平面から立体へ、立体から平面へという終わりのない往還運動の反復の中から、スミスならではの形態が出現していったのである。その反復は、スミスにとって閉じることのない創造行為、新しい発見への道程を意味していたようだ。
原題:「ドローイングと彫刻作品の連関について」、図録『デイヴィッド・スミス』、セゾン美術館ほか、1994年4月刊
デイヴィッド・スミス ― 平面と立体の間の往還運動〔抜粋 2 / 2〕
絵画空間においては不可能とされること、彫刻空間においては不可能とされること、あるいはそのどちらにおいても現時点では不可能とされること、それらすべてをスミス(1906–1965)は同一の空間の中で可能たらしめようと試みてきた。なかでも、構造的な次元で彫刻空間に独自の絵画性を取り込もうとしたことは、現代彫刻の歴史において最も特筆に値する試みだったといえるだろう。スミスはまさに手探りでそうした試行錯誤を実践し、彫刻の可能性を大きく拡張していったのだ。
平面1/立体1/平面2/立体2……という内的連鎖から、スミスが独自の問題提起を反復してゆき、さまざまな工夫や発見を獲得していったことは事実である。重力の作用、地と図の作用、接続と切断の作用、色彩の作用、筆触の作用……と、それらをひとつひとつ数えあげれば際限がない。コンピューター技術の隆盛がめざましい現在でも、ドローイングと彫刻作品の相関関係を基盤にスミスが培っていった造形思考、その両者の間で彼が具体的に実践した往還運動、平面と立体というメディアそのものがはらむ問題への意識的な挑戦は、依然として有効な問いを私たちに投げかけてくる。その問いはいまだ開かれたままなのである。
原題:「ドローイングと彫刻作品の連関について」、図録『デイヴィッド・スミス』、セゾン美術館ほか、1994年4月刊
むすばれる……超現実の結像 ロベルト・マッタ〔雑誌連載 1〕
おぼろげでありながら、妙に深く心に刻まれている記憶というものがある。前後の脈絡はどうにも曖昧なのに、たとえばある音声、ある映像、ある感触だけが、突出したリアリティをもって蘇える、そんなことが誰にもあるだろう。そんなものをはたして「記憶」と呼びうるかどうか…… ともあれそれは日常の文脈からはつねに遠く逃れ去り、現実世界とはけっして「むすばれる」ことのない浮遊物なのである。しかし、そうした未知の、あるいは異次元の記憶とでも呼ぶべきものが、ひとつの像となって「むすばれうる」場がある。絵画である。
ロベルト・マッタ(1911–2002)はスペイン、フランス、バスクの血をひくチリ生まれの画家。アヴァンギャルド時代のパリ、ニューヨークにデビューしたのち、軽妙洒脱な発想と縦横無尽の行動をもって、独自のシュルレアリスム絵画を展開してきた。彼は他のシュルレアリストの誰にもまして「革命的、実践的な超現実」を達成した画家といえるだろう。すなわち、シュルレアリスムが一方で私的な深層心理や表面的な象徴作用に拘泥していったなか、マッタは確かな手応えをもって、創造の力学としてのシュルレアリスムを存分に活用し、絵画の自由を大いに拡張していったのである。マッタは、一個の「ワタクシ」の時間の流れのなかでは捉えがたい速度で明滅する、未知の、異次元の記憶をドローイングに留めてきた。さらにはそうした「異物」をつぎつぎと招来するために、そのタブローをあらゆる次元へと開いてきたのである。そのことは、卑近な記憶をむしろ排除してゆき、純然たる抽象表現の誕生を促す契機となった。
思えば「シュルレアリスム」などというこむずかしいイズムの登場を待つまでもなく、太古の昔より絵画とは、日常目にすることのできない「超現実」こそを結像するために生まれた画面であり、既成の脈絡には安住しえないものたちを解放するための場であったはずである。
併載作品図版:ロベルト・マッタ《海と結ばれるカップル》、1983年、油彩・キャンヴァス、徳島県立近代美術館蔵
『週刊朝日』、1992年9月25日号
ゆがむ……輪郭線の破綻 ヴィレム・デ・クーニング〔雑誌連載 2〕
不断の意志力をもってものを見る、さもなくばわたしたちの目はいとも易々と物象の側から欺かれる。現にそこに存在する物体も、「意味」という輪郭線を与えられてはじめて、わたしたちの目にリアリティを映し出す。しかしそれも束の間のこと、不埒な「意味」はめくるめく変化し、輪郭線などというものははじめから不在であったことを思い知らされるばかりなのだ。
20世紀初頭、新天地アメリカの
1904年、ロッテルダムに生まれ、20代でニューヨークへ亡命。アーシル・ゴーキーとの親交を糧に抽象表現主義を先駆し、〈白と黒〉シリーズや〈女〉シリーズをもってひとつの時代を画した彼は、70年代以降、彫刻作品も手がけるようになった。
デ・クーニングにとって作品とは、それ自体が抜きさしならない生々しい現実であった。彼とともに描く行為そのものを作品化した同時代のポロックが、シュルレアリスムの洗礼を経たのち神話的な高みに達したのに対し、彼はその洗礼を拒絶し、猥雑な都会の喧騒に身を挺している。粗々しい筆致で描き出される人物の輪郭線は、いうまでもなくあらかじめ破綻している。「ゆがんだ」顔、「ゆがんだ」四肢が、現実の矛盾をかかえたまま躍動しているのである。すべての面が同時に輪郭線でもある彫刻は、なおのこと危機的にその存亡を賭して、あらゆる動勢を歪みの縁から牽引しようとしているかのようだ。
併載作品図版:ヴィレム・デ・クーニング《頭 No. 3》、1973年、ブロンズ、徳島県立近代美術館蔵
『週刊朝日』、1992年10月2日号
もくする……沈黙の波動 浅野弥衛〔雑誌連載 3〕
表現が「沈黙」を生む、あるいは「沈黙」の果てに表現が成立する、そんなことはおそらくありえない。そもそも表現とは、好むと好まざるとにかかわらず、その特性として冗舌を志向するものだからである。しかし浅野の絵画は、瞭然と「沈黙」を表わしている。しかも逆説的な手法としてではない真正の「沈黙」を、である。
自己を機軸に「表現」の在り方、その可能性を模索することが、ひとつの主題ともなった今世紀〔20世紀〕の美術は、表現以前に立ち現われる幾多の光や音を、どこかに置き忘れてきてしまったようだ。そんななかで浅野の「沈黙」は、雲の裏側から差す陽の光、尾根ひとつ越えたところで流れるせせらぎの音、そうした微かなるものたちを豊かにかかえこむ稀有なる詩想といえるかもしれない。微かなるものたちの波動を、自らの言葉で掻き消さぬよう、「表現」という名の解釈で掻き乱さぬよう、画家はひたすら無名の徒でありつづけようとする。たとえばこの3点1組の作品《無題》を前にすると、誰しも言葉を失い、美術史も美術評論も、すべての言説が絵空事と化すかのようだ。抽象も具象もなく、形態論も色彩論もない。美しい鉛色が厚手の紙を塗り潰してゆく微かな音、溝のように塗り残された白い線が震えながら放つ光、それ以外のものは何も見えず、何も聞こえないのである。
浅野弥衛(1914–1996)は鈴鹿に生まれ、同地に住まって現在に至る。大戦を経たのちは、恬淡とした態度で画業に勤しみ、日本画も洋画も現代美術も、遠く彼の地の喧騒であるかのごとく等閑に付し、黙々と静謐な画面を描きつづけてきた。いうまでもなくその画面は、「静謐」を表現しているわけではない。ある種の詩想が充溢した瞬間、飽和の極みとしての「沈黙」が、おのずと画面をおおうのである。その「沈黙」には、明澄な光や音や波動が数知れず滲むようにたたえられている。
併載作品図版:浅野弥衛《無題》(3点1組)、1984年、鉛筆・紙、名古屋市美術館蔵
『週刊朝日』、1992年10月9日号
たゆたう……不確かさの揺曳 マーク・ロスコ〔雑誌連載 4〕
誤解を恐れずにいうならば、ロスコの絵画ほど「不確か」な絵画はない。そこには絵画を絵画として成立させようとする構築的な意志は見当たらず、確かなものなどありうべくもないといった諦念が、ただただ茫漠と染みわたっているように見える。
何かひとつことに真摯な想いを馳せれば、実際に確かなことはほんのわずか、不確かなことは数限りなく天空を埋めつくしていることに気がつく。そうした無限の「不確かさ」は、時として得体の知れぬ不安の深みへわたしたちを引き摺り込み、平凡な日常さえも、儚い幻影のごとく得がたいものであることを教えてくれる。
しかし近代という時代は、そうした中世的な暗翳への畏怖を隠蔽したまま、楽天的なまでに確かなものを希求し、弛まぬ意志をもって虚構の文化を築き上げてきた。そんな時代にあってロスコは、「不確か」としか思えぬものを、つねにそのまま画面に揺曳させつづけてきた。そして確かなものを見定めたかのようなアヴァンギャルド絵画の、そのあまりに明快な構成的造形に、はっきりと背を向けていったのである。
ロスコ(1903–1970)はロシアに生まれ、10歳のときにアメリカへ移住した。のちに抽象表現主義から「色彩による場の絵画(カラー・フィールド・ペインティング)」が派生する経緯で重要な役割を果たし、58年からは「壁画」制作に着手。この作品《無題》もそのうちの1点である。中世の技法書に準じて絵の具を調合し、色彩を最重視した瞑想的な絵画を描きつづけたが、70年に自ら命を絶った。
ロスコが何を描こうとしていたのか、それはたやすくわかることではない。儚いものへの憧憬も、得体の知れぬものへの不安も、渾然一体となって不確かなまま画面にたゆたっている。たゆたいながら浮沈するその色彩は、けっして形態に枠取られることのない収束不能な情動、畏れを知る者のみが発する声なき祈りのようなものといえるかもしれない。
併載作品図版:マーク・ロスコ《無題 7572》、1958年、油彩・キャンヴァス、川村記念美術館蔵
『週刊朝日』、1992年10月16日号
ゆれもどる……水への回帰 クロード・モネ〔雑誌連載 5〕
周知のごとくモネ(1840–1926)は印象派の画家である。しかし一定の年月を経て戦後再び語られるようになったその作品、とくに晩年の作品は、印象派の枠内にとどまるものではなかった。それは抽象表現主義と連鎖し、期せずして今日的な絵画の混迷を引き受けることになったのである。印象派は前世紀末、写実の系譜にあってそれを極限まで解体していったひとつの実験であったが、モネは結果的にその系譜をも逸脱してしまったようだ。
晩年モネは、白内障による視力の衰えに苦しみながら、ジヴェルニーの自庭に造った睡蓮の池を、憑かれたように描きつづけた。総計300点にも及ぶかというこの連作《睡蓮》こそ、モネに「逸脱」を余儀なくさせた独自の画境といえ、そこには最も根源的と思われる絵画の問題があまた内包されている。
なかでもとりわけ気にかかる点が「水」というモチーフにある。モネは生涯を通じて「水」に並々ならぬ関心を寄せた画家であったが、ここ《睡蓮》に至ってその「水」は、モチーフであることを超えて、絵画の「支持体」となったかのようだ。つまり、「水」それ自体がさまざまな表情を示すというよりは、構造的なレヴェルで媒介として機能しているということである。それは光を反射すると同時に吸収し、虚像を映し出すと同時に実像を包み隠す。無色透明でありながら多彩な陰影を帯び、より闊達な動きを絵筆に与えもする。それは光も影も虚も実も、あらゆる要素を混沌のうちに包摂してしまう、ある種の母性を備えた環境なのである。「支持体」としてはこれほど不安定な素材はなく、あえて絵画史の因襲、たとえば遠近法や輪郭線を否定するまでもなく、それらがもとより効力を発しえない原初的な場ともいえるだろう。モネは図らずもそうした場へとゆれもどり、新たな言語を発せざるをえない宿命を、知らず知らずのうちに自らに課していったのかもしれない。
併載作品図版:クロード・モネ《睡蓮》、1907年、油彩・キャンヴァス、川村記念美術館蔵
『週刊朝日』、1992年10月23日号
ひろがる……拡張する画面 モーリス・ルイス〔雑誌連載 6〕
1950年代末、「色彩による場の絵画(カラー・フィールド・ペインティング)」と呼ばれる一群の作品が、抽象表現主義から派生するかたちでアメリカに登場した。それは一言でいえば、色彩を形態から解放し、大画面で自律的に展開させて、新たな「場」としての絵画空間を創出させようとする試みだったといえる。ルイス(1912–1962)はその試みを最も明快に体現した作家のひとりだった。
そもそも色彩は、形態から完全に解放されて存在しうるものではない。形態が無色透明のままでは像として定着しえないのと同様、両者はつねに補完しあうかたちではじめて画面に表出する。しかしルイスは、色彩の恣意性を最大限に活用し、形態の論理性を最小限に抑制しようとした。具体的には、表面を地塗りしていない生の綿布に、溶剤で薄めた液状の絵の具を垂らし込み、滲みながら画面に広がってゆく色彩がおのずと形態を生み出すプロセスを、自らの作画の手法としたのである。その意味でルイスの絵画は、極限まで色彩を優先させた作品といえる。
しかし、同時代の他の作家は別として、彼が色彩の効用そのものに無類の関心を寄せていたとは思えない。色彩はルイスにとって表現の主題であったわけではなく、便宜上、自らに与えた手段のひとつだったにすぎないという気もする。
そうした特異な限定によって、彼は表現という行為から可能なかぎり距離を取ろうとした。作者の主体性は限りなく希薄となり、制御不能の色彩が未知の形態を思いのまま画面に生起させてゆく。そのとき形態はすべての論理を逆行しはじめる。奥行きのイリュージョンはどうしようもなく平坦な二次元性に、身振りとしての筆触は何の抑揚もない匿名の画質に還元されてゆくのである。そしてその果てに漠として広がる空間は、どれほど大きな画面を与えられようとも、その枠内で収束する論理の完結をみることはない。画面は遠心力をもつかのように拡張し、現実の空間へととめどなく波及してゆくかのようだ。
併載作品図版:モーリス・ルイス《ガンマ・ツェータ》、1960年、マグナ(アクリル)・キャンヴァス、川村記念美術館蔵
『週刊朝日』、1992年10月30日号
そぎおとす……「最小限」の強度 フランク・ステラ〔雑誌連載 7〕
「芸術は芸術であってそれ以外の何ものでもない」といったメンタリティを基底としたのが抽象表現主義の世代だったとすると、その恩恵に浴しながら60年代に登場した世代、たとえばその代表格であるステラ(1936–)は、「見えるものだけが見える」といった言葉で自作を説明している。のちに「ミニマリズム」と呼ばれるようになったメンタリティの片鱗である。
抽象絵画の流れには、「排除の美学」とでも称すべき感性があらかじめ用意されていたともいえるが、ステラに至ってその美学は、さまざまな付加価値を排除することによって純度を高めるとされていた芸術性(アウラ)すらをも、排除することになったようだ。絵画は芸術である以前に、絵の具やキャンヴァスといったたぐいの物質でしかない、という認識である。換言すれば、不可視の精神性を備えた芸術作品として「礼賛される」ことよりも、可視的、即物的に存在する絵画空間として「触知される」ことを望んだともいえるだろう。
その作品《ポルタゴ侯爵》は、ステラ最初期の〈アルミニウム・シリーズ〉のうちの1点である。無表情な工業用塗料などを使って、ストライプという線の反復を画面全域に広げただけの作品群は、あまりの単純さゆえ、見る者に衝撃を与えた。色彩の明暗や筆触の強弱など、固有のニュアンスを醸し出す要素はすべて、できるかぎり「そぎおとされて」おり、その果てに「最小限(ミニマル)」の平面が現出している。そこでは部分は全体と等価となり、あるいは部分から全体が演繹されてキャンヴァスの形状が決定するなど(シェイプト・キャンヴァス)、逆説的構造が歴然と視覚化されている。
ステラの「最小限」が示した逆説、その力学的強度は、デュシャンが提起した「非芸術」の問題に対するひとつの有効な回答、絵画の内側からの例証となったといえるかもしれない。
併載作品図版:フランク・ステラ《ポルタゴ侯爵》、1960年、アルミニウム塗料・キャンヴァス、川村記念美術館蔵
『週刊朝日』、1992年11月6日号
ジップ……鉛直線との共振 バーネット・ニューマン〔雑誌連載 8〕
ヨーロッパ的な絵画の伝統において、水平・垂直の線はきわめて観念的に作用してきた。そこではまず水平線が設定され、それが上下、さらには天地を分かつ境界線となる。そしてその境界を超脱する道筋として垂直線が現われるのだが、それは下から上へ、地上から天上へという上昇志向をつねに代弁してきた。 ― といった図式をとりあえずモニュメンタルな作品の構造と考えると、ニューマン(1905–1970)の絵画はことごとくそれに反駁していることに気がつく。
ニューマンは大きな平塗りの色面に、垂直線を1本ないし数本引いただけの絵画を、後半生すべてをかけて描きつづけた画家である。彼はその垂直線を「ジップ」と名付けて、独自の思索の試金石としてきた。その作品《アンナの光》の場合、左右両端に見える白い帯が「ジップ」の変形と考えられる。それは色面を裁断するというよりは縫合する(ジッパーを閉めるような)線であり、キャンヴァス全体を垂直に擁立する軸線でもある。また、画面を前にして立つ者すべてが生来、身に備えている垂直感覚(鉛直感覚)と無条件に呼応して、観念的な視線が介在する以前に、すばやく相互の存在認識を決定づけてしまう、作品と観者の間の特異な接線ともいえるだろう。
ニューマンは40代なかばにして、ヨーロッパ的な思潮に感化されてきた自らの前半生を、純然たるアメリカの画家として否定するようになった。画面からはシュルレアリスム的イメージが消え、独善的な水平線が消え、面と面の間の階級差が消え、そして固有の主張をもたない色面と上昇を志向することのない垂直線「ジップ」だけが残った。たとえば彼が好んで使う赤は前進することなく画面に定着し、また垂直線「ジップ」は突出して屹立することなく素直に鉛直線をなぞっている。そうした事実は、ニューマンが望んだニュートラルな画面の実践を裏付けている。それは言い換えれば、天地の接合といった既成の神話的語法からの脱出、そして作品と観者を共振させるような新しい次元のリアリティの獲得を目指した、すぐれて過激な実践だったといえるかもしれない。
併載作品図版:バーネット・ニューマン《アンナの光》、1962年、アクリル・キャンヴァス、川村記念美術館蔵
『週刊朝日』、1992年11月13日号
みなぎる……純粋力学の極限 ジャクソン・ポロック〔雑誌連載 9〕
木枠に張らずに大きな画布をそのまま床に広げて、まさにその画布のなかにあって「描く」行為を炸裂させたポロック(1912–1956)は、「アクション」の画家と呼ばれている。彼は筆や棒の先から絵の具を滴らせ(ドリッピング)、自らの身振りの軌跡を幾層にも重ねて、中心のない画面(オール・オーヴァー)を描き出した。それは文字どおり抽象表現主義を体現し、戦後のアメリカ美術を決定的に方向づける絵画となった。
ポロックが「アクション・ペインティング」を制作したのは、死を目前に控えたわずか5、6年のことだったが、こうした画期的画法に到達する経緯には、当然のことながら十分な予兆があった。ポロックの内側には、かつてないかたちで画面に対峙せざるをえなくなった必然性があったのである。その必然性とは、一言でいえばエネルギーの過剰といえるかもしれない。彼は横溢するエネルギーをより速く、より直接的に画面に移行するため、画布を俯瞰するかたちで重力を利用し、知的な所作を伴いがちな手先の筆遣いを捨て、身体の運動機能すべてを動員して作画したのである。かつて彼が拘泥していた呪術的イメージは、ここでは完全に払拭されてしまったかに見えるが、それはむしろ巨視的なイメージとなって、画面にそのうねりを投影しているようにも見える。たとえば二次元から遊離したイメージが三次元空間を疾駆し、逆巻くようなエネルギーを発散する。それを現在進行形の運動の総和として捉えるべく、画面はすべての部分を全体へと解放して待機する。 ― そんな仮想がポロックのオールオーヴァーには似つかわしく思えるのである。
虚空を舞い、あるいは裁断し、あるいは振動させるポロックの描線は、画面に着地しえないもののエネルギーをも充填し、異常なまでの緊張感を漲らせている。それは単なる偶然や無意識の所産というよりは、確固たる必然に裏打ちされた偶然、明敏な意識に触発された無意識が生み出す、純粋力学の極限だったといえないだろうか。
併載作品図版:ジャクソン・ポロック《緑、黒、黄褐色のコンポジション》、1951年、油彩・キャンヴァス、川村記念美術館蔵
『週刊朝日』、1992年11月20日号
しずめる……自我の鎮静 ジョセフ・アルバース〔雑誌連載 10〕
自然界に完全な左右対称(シンメトリー)は存在しない。それはすぐれて人工的な理想的造形ともいえる。一方でシンメトリーを導入した画面は、その一事をもって決定的に規定される。千変万化のドラマ性は展開を停止し、画面内の時間は右から左へも、左から右へも流れなくなる。中心線が示唆する厳然たる正面性に視線は固定され、作者の心の揺らめきを介することなく非自然、非日常が設定される。そして自明の理としてそこには、ある超脱的な安定が生じることになる。アルバース(1888–1976)は「正方形」という究極のシンメトリーをもって、その安定のなかにかぎりなく自我を消失させようとした画家といえるかもしれない。
抽象絵画の一隅には、精神的葛藤から意識下の情動まで、私的な主観性すべてを廃絶し、無私の客観性をもって純粋な造形理論に殉じようとした流れがある。色や形を素材に自己を表出するのではなく、色や形そのものの属性を探求しようとした動きともいえ、アルバースはそうした探究者のひとりだった。しかしこの流れは、20世紀美術において「造形」の問題に終始したというよりは、むしろそれが極限化した「表現」の問題を逆説的に浮き彫りにしたようにも思える。たとえば幾何学的抽象という表面は、自明の理を視覚化する行為において、まごうかたない匿名性を獲得する。その匿名性を前提に、ひとりの画家が表現を成立させうるかいなか、それは大きな矛盾をはらんだ問いとして、作品の核を成すことになるのである。
アルバースは数百点にものぼる〈正方形礼讃〉シリーズを、60歳を過ぎてから1点1点、描き重ねていった。彼は匿名の表面を普遍的内面と表裏一体化させることを標榜していたようだ。シンメトリーという規定によって自我を鎮静し、色彩の相互作用がもたらす和声をその分だけ純化しえたとき、画面は造形と表現との間の矛盾を自浄して、ある種の礼拝性を表出するのかもしれない。
併載作品図版:ジョセフ・アルバース《正方形讃歌のための習作:グローイング》、1968年、油彩・メゾナイト、川村記念美術館蔵
『週刊朝日』、1992年11月27日号